死にたいと考えてる人へ
雪は毎年降っているはずなのに、雪の結晶を見るのは何年ぶりだろうか。
ああ、大人になりたかった子どもの頃に戻りたい。
今は春だけど、冬だった頃、私はそんなことを考えていた。もう少しで夏だ。
話が変わるけれど、ウンコ味のカレー問題という、哲学の頂点的な問いがある。私が子どもの頃には既にその問いが存在していた。
多くの人々がその問いに悩まされる時期があったであろう。まだないという人もいつかそういう時期が来るので安心して欲しい。
そして限られた人生の貴重な数時間を無駄にする。
私だってそうだった。会社でPCと向き合いながら一生懸命仕事をしているフリをしつつ1時間ほどそれについての思考に費やしたことだってある。解決しない場合、1週間後ぐらいにまたその問いについて考えなくてはならない。
偏頭痛とか定期的な発作のようなものだ。
ソクラテスもその問いに対しては答えを出すのを避けた。あるいはソクラテスの住んでいた地域、時代には「カレー」という食べ物は存在せず、その問い自体も存在しなかった可能性もある。
とにかく、かつての偉大な哲学者すらも答えを出せなかった、そのしわ寄せが現代の人々にきているわけだ。
ざっくりその経済的損失を計算してみよう。
カレーを食べる地域である、日本とインドの人口は合計で、
1億(日本) +13億(インド) = 14億。
グローバル化が進み今よりカレーが全世界に普及すると考えると、影響は今後さらに拡大すると思われる。
うんこ味のカレーを食べるべきか、カレー味のうんこを食べるべきか、自分なりの暫定的結論を導き出すのに必要な時間は平均で1時間くらいだとする。1時間の根拠は、平均的な存在であるこの私がそのくらいの時間を要したのだから間違いない。平均値だ。
ただしこれはあくまで暫定的結論であり、人類の普遍的な問いが根本的に解決されたわけではないので、注意が必要だ。
1時間あったら深夜のコンビニのバイトで1000円くらい稼げる。
つまり、合計の経済的損失額は次の式で表すことができる。
1000(円) × 14億(人) = 1兆4000億円。
ソクラテスの罪は重い。
哲学というのは考えたところで社会にとってなんの生産性もない、極めどうでも良い問いであるにも関わらず、答えを導き出すのが大変困難な問いのことである。
哲学者達は日々目的もなくこの問いに対して不毛な論争を繰り返し行うことで、自己承認欲求を満たし、威厳と尊厳、また精神的安定を保っている。
古代のギリシャ人はよほど暇人だったのだろう。
近い将来、AIやロボット等のテクノロジーが発達し、人々が働かなくても生活できる社会がいずれ実現することになる。
すると人々は芸術や音楽、文学やスポーツ等の自分の好きな分野、あるいは得意分野に打ち込むことになる。
しかし、それらのセンスのかけらもない一部の人は哲学という学問にしか逃げ場がなくなるということは容易に想像できる。
その人達のためにこの問いの答えを敢えて出さないでとっておくべきか、私は考えた。
しかし実際のところ、現代の科学は発展段階であり、人々が働かなくても生活できる社会をすぐに実現できるとは思えない。
それを実現させるための科学者たちが、うんこ味のカレー問題で頭を悩まし、そのせいで科学の研究に差し支えが出た場合、実現は著しく困難になる。
それは困る。遺憾の意である。
不本意ながら、今のうちに私が答えを導き出し、ここに記すことにした。
ウンコ味のカレーを食べるという行動は、多くの人々が「未だに経験したことのない行為」の象徴である。
それはすなわち「死」のことである。生きているほとんどの人は死んだことがない。
カレー味のうんこを食べるという行為は、「世の中の理不尽さ」を象徴している。
食べ慣れているはずのスパイシーで程よく塩味の効いた美味しいフードが、何者かの肛門くぐり抜けているなんて、理不尽としか言いようがない。
つまり、多くの人が自殺を試みる前に発するであろうフレーズ、
「こんな理不尽な世の中、死んだ方がマシだ」は、
「カレー味のうんこを食べるくらいなら、うんこ味のカレーを食べる方がマシだ」
と言っているに等しい。
自殺は一般的に良くないとされている行為だが、当事者がその後どうなるかは不明だ。無になるのか。天国か地獄へ行くのか。はたまた輪廻転生という名の無限ループか。本当に未知の世界である。
同じように、うんこ味のカレーを食べることは一般的に良くないと思われる行為だが、それを口にした瞬間どんなことが起こるのかは未知である。美味しいと思うのか不味いと思うのか、または精神的におかしくなってしまうのか。
何が言いたいかというと、比較している対象が未知数であるにも関わらず、結論を出している(出そうとしている)ということには問題があるということだ。というかそれは不可能だ。本来ならそんなことはできないはずだ。
比較とは比較対象がどのようなものであるか充分に理解できている状態でのみ成立する。
充分に理解できていない状態での発言はギャンブラーのハッタリに過ぎない。
つまり、結論を導き出すためには、まず経験をしなくてはならないわけだ。
私は結論を導き出すために不足していた経験を補うことを決意した。
うんこ味のカレーはこの世に存在しない架空の食べもの。
経験を積むにはまず、この世に存在するであろう、うんこ味のうんこを食べるしかないというわけだ。
私は嫁のトイレに走った。
猫砂をかき分け、嫁のウンチを取り出しお皿にのせた。
見た目は、チョコレートだ。それも大量生産されている安物ではなく、ひとつひとつ丁寧に手作りされた高級チョコレートのように、見えなくもない。
箸にすべきか、フォークにすべきか悩んだが、うんこ味のカレーに少しでも状況を近づけるべくスプーンにした。
嫁が不気味そうにその様子を見守る中、私はテーブルに置いたお皿の中心に置いたうんこ味のうんこをスプーンで割いて、その断面を確認した。
ほう、なるほど。思っていた以上にチョコレートだ。
と思った瞬間、突然ツンと鼻に突き刺さるニオイ。
うんこ味のうんこはうんこの臭いがする。
うぐ、、。
私はトイレに駆け込み、嘔吐した。
・・・苦しい。
私が、うんこ味のうんこを食べるということは、1兆4000億円の損失を補い、ソクラテスの罪を償い、人類の悩みを解消し、間接的に世界を救うことにつながる。
私にとっては小さな一歩だが人類にとっては大きな一歩だ。
しかし、私にはその一歩が・・・重すぎた。
あいるびーばっく。お皿に戻らなければ。
薄れゆく意識の中で私はそう思ったが、身体は限界に達していた。
嫁が心配そうに私を見つめる。
今まで本当にありがとう。大好きだよ、嫁。
すりよってきた彼女の頭をそっと撫でながら、私はゆっくりとまぶたを閉じた。
世界を救うことはできなかった。
一見不毛な試みに終わったように見受けられる、今回の経験中で、私は一つだけ確かな結論を導き出すことに成功した。
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「うんこ味のうんこを食べようとするくらいなら、世界を救わない方がマシだ。」
すなわち、言いかえると。
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
「結論を出そうとするくらいなら、結論を出さない方がマシだ。」
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そして、今死にたいと考えているそこの君たち。
君たちはうんこ味のうんこを食べたことがあるのですか…?
もしないのなら、是非食べてみてください。
もしもその経験が既にあるのなら、あなたにはこの世界を救う義務があります。
ノブレスオブリージュ。
オシマイ。